はじめに
本記事では、シカゴでセツルメントハウスである「ハル・ハウス」を創設し、第一次世界大戦では国際的な女性リーダーとして平和に向けた活動を行い、最終的には「アメリカ人女性初のノーベル平和賞を受賞」された「ジェーン・アダムズ」についてご紹介になります。
国家試験では「シカゴでハル・ハウスを設立」と学びましたが、ジェーン・アダムズの功績というものは当然一言では表すことができません。
また「ケースワークの母」と呼ばれるM.リッチモンドも、ハル・ハウスの事務員として働いていた時期があったそうです。
ソーシャルワークの源流を築き上げた時代と人物について触れることで、より一層視野や価値観というものが広がることを目的に、わかりやすく簡潔にまとめていきます。
なお、セツルメントについては当HPで記事をまとめております。本記事をご覧になる前、もしくはご覧になった後に、こちらの「セツルメント運動について」の記事もご覧いただけるとより理解が深まります。
https://socialconnection-wellbeing.com/settlement/
ジェーン・アダムズ
何かにおびえて、すぐにあきらめ、世界を救うかもしれない取り組みを投げ出してしまう。それが一番良くないことです。
引用:危険なジェーンと呼ばれても スザンヌ・スレード文 アリス・ラターリー絵 小林晶子訳 岩崎書店
ジェーン・アダムズ(Jane addams)
ジェーン・アダムズ(以下J.アダムズ)は1860年にイリノイ州シダーヴィルに生まれます。
父親は上院議員で、リンカーンと深い関わりがあった方になります。また様々な事業を営み、J.アダムズは裕福な家庭に生まれ育ちました。
しかしJ.アダムズが2歳の頃、母親は間もなく亡くなります。また自身も4歳の時に、「脊椎カリエス」の診断を受け、背骨が曲がり、つま先が内側に向いてしまうなど、「母親の死と病気」が彼女の人生のスタートで訪れました。
J.アダムズが5歳の頃に、父親の仕事の関係で、「キルグルッピン」という町を通りかかります。
この時に、荒廃した家々や貧しい人々の実態を垣間見て、小さいながらにも「大人になったら大きな家を買って、貧しい人たちと一緒に暮らす」ことを宣言します。
J.アダムズは、小さい頃に母親を亡くし、自身も病気であったこともあり、「人の寂しさや辛さに敏感な人」だったかもしれません。
ヴァルネラビリティ
他人の痛みや感情に対して共感性が高い性質
※日本では脆弱性(弱さや傷つきやすさ)など表現されるが、一方で人の痛みや辛さを敏感に察知することができるともいえる。
J.アダムズはその後、ロックフォード大学で学び、親友の「エレン・ゲイツ・スター」と出逢います。
しかし一方で、1881年には今度は父親が亡くなります。
また自身の病もあり、2年ほど病床につかなければならない時期もありました。
そのような辛い出来事があった後、1888年に友人のエレン・ゲイツ・スターとヨーロッパ旅行に出かけます。
その時に、世界初のセツルメントハウスである「トインビーホール」を訪れます。
このトインビーホールに訪れたことをきっかけに自身のやりたかったことを見つけ、アメリカに帰りすぐさま翌年1889年にシカゴでセツルメントハウス「ハル・ハウス」を設立することになるのです。J.アダムズは当時29歳でした。
ハル・ハウス(Hull House)
アメリカでJ.アダムズはシカゴで大きなレンガ造りの立派な家を見つけます。建物は古かったので、寄付を呼びかけ修繕を行います。
またハル・ハウスの場所は、様々な国の移民が住む地区の中心に位置しており、困っている人々が多く住む地区の近隣でもありました。
1889年、ハル・ハウスは誰でもいつでも来ることができる家として、様々なクラブ活動から、公共の食堂、英語教室、図書館、美術館、働く母親のための保育園、大人のための夜間学校、労働組合の集会所、演劇、文化イベントなど、必要なものは何でも行いました。
また移民を搾取から守り、子どもや女性を守るための運動も行い、移民保護連盟や国内初の少年裁判所、女性と子どものための保護法の制定など、様々なプロジェクトを展開します。
1909年にはNAACP(全米有色人種地位向上委員会)の設立にも力を入れます。
また1910年にJ.アダムズは女性として初めて、全米社会福祉事業協議会の会長にも任命されました。
このようにJ.アダムズはハル・ハウスの活動を中心に困っている人に手を差し伸べることを生涯にわたって行います。
そこでは多くの移民を受け入れる中で、当然価値観の違いから意見の対立もありましたが、「お互いの意見を聴くことと、平和的な解決」を大切にしたとのことです。
またJ.アダムズは、ハル・ハウスに来る人たちと「友人」になり、「夢を持てるよう励ますこと」を一番大切にしたそうです。
アメリカ人女性初のノーベル平和賞
1914年に第一次世界大戦がはじまりました。
J.アダムズは「全人類同胞」という精神のもと、様々な国から来た人を受け入れ平和に暮らすことができるように取り組んできたことから、「戦争を止めるためにできることは何か?」考えます。
まず最初にアメリカ人の女性を集め、「平和を願う女性の会」を設立します。3000人ほど首都ワシントンに集まり、J.アダムズはその会長に選ばれます。
どの国にも平和を望む女性たちがおり、この「平和を願う女性の会」の活動はアメリカ国外にも知れ渡ります。
そして、オランダで開かれた国際会議で、J.アダムズは12か国1500人の女性の先頭に立ちます。
戦争を止めるために出来ることは何か話し合い、「平和への20の決議」を文章にまとめ、ヨーロッパを回り各国の指導者に訴えたのです。
しかし、1917年にはアメリカも第一次世界大戦の参戦し、翌年に終戦を迎えます。
終戦後J.アダムズは、すぐさま戦争によって荒れ果てた国のもとを訪れ支援を行います。
一方で、資金を集め、国外の飢えた子どもたちへ食糧を送るなど、他国を支援したため、FBIからは「アメリカで最も危険な女性」と呼ばれることもありました。
またWILPF(婦人国際平和自由連盟)を設立し、初代会長に任命されます。
婦人国際平和自由連盟 日本支部|http://www.wilpf-j.server-shared.com/index.html
※日本支部は2021年に結成100周年を迎えました。
J.アダムズは「危険な女性」と呼ばれたものも、やがて真実が明らかになり、1931年に「アメリカ人女性初のノーベル平和賞」を受賞されます。
ノーベル平和賞 1926-1950 | https://www.kahaku.go.jp/special/past/nobel/plus/peace/1926_1950.html
当時J.アダムズは71歳でした。そして1935年に75歳でその生涯を終えることとなります。
まとめ
以上がJ.アダムズについてご紹介になります。
幼少期に母親を亡くし、自身も病であったJ.アダムズは、「いつか大きな家を買って貧しい人たちと一緒に暮らす」ことを夢に掲げます。そしてトインビーホールを訪れたことをきっかけにハル・ハウスを設立し活動を展開、また第一次世界大戦では国際的な女性のリーダーとして人々をまとめ行動し、ノーベル平和賞を受賞されました。
このように「J.アダムズはハル・ハウスを設立」という一言から抜け出し、J.アダムズの多くの功績やその生き様を感じ取ることができたなら幸いです。
J.アダムズは困っている人に手を差し伸べ、世界的な影響を与えるといった生涯を送りましたが、一方で自身も健康上でいくつも困難がありました。脊椎カリエスからはじまり、肺炎や腎臓の病気、心臓病やがんなどがあったにも関わらず、平和のための活動や困っている人のための活動をやめることはありませんでした。
~にも関わらず
「自分が〇〇にも関わらず、〇〇する」
こうした姿勢やエネルギーが原動力となり、人や周囲に影響を与える
またハル・ハウスは現在ミュージアムとして今も大切に残っております。
HPでは、バーチャルツアーを体験することができ、ハルハウスの建物の風景や、英語ではありますがガイドもありますので興味のある方は是非ご覧ください。
ハルハウスミュージアム|https://www.hullhousemuseum.org/
私たちが日々「悩み・迷い・問い続ける」中で、こういった「源流」というものが何かヒントを教えてくれると私自身信じております。
当HPでは、今後ともこのような福祉に関する源流を記事にしていきますので、引き続きどうぞよろしくお願いします。
☆参考文献/URL(記事更新日)
・危険なジェーンと呼ばれても スザンヌ・スレード文 アリス・ラターリー絵 小林晶子訳 岩崎書店
・ハルハウスミュージアム|https://www.hullhousemuseum.org/about-jane-addams
・アメリカンセンタージャパン 女性実力者の系譜ー世界を広げる ジェーン・アダムズ https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/4929/