
「部下のモチベーションをどうすれば高められるのか」という問いは、多くのマネージャーが日々直面する課題です。その解決策として給与アップや福利厚生の充実が図られるものの、必ずしも社員の意欲向上に直結しない現実に頭を悩ませることも少なくないでしょう。
なぜ、待遇を改善してもその効果は一時的なのでしょうか。その答えのヒントは、人の「満足」を生み出す要因と「不満足」を引き起こす要因が根本的に異なるという考え方にあります。
この画期的な視点を提唱したのが、フレデリック・ハーズバーグの「動機付け・衛生理論」です。本記事ではこの理論を紐解きながら、人の内なる意欲を真に引き出すための本質的なアプローチについて考察します。
ハーズバーグとは?

フレデリック・ハーズバーグは、20世紀のアメリカで活躍した臨床心理学者であり、特に経営学の分野においてその名を広く知られています。
彼は、人間の労働意欲、すなわちモチベーションが何によって左右されるのかという根源的なテーマを生涯にわたって追求しました。当時の経営学では、人間の欲求を一つの連続した軸で捉える考え方が主流でしたが、ハーズバーグはその常識に疑問を投げかけます。
彼は机上の空論ではなく、実際の職場に足を運び、多くの技術者や会計士といった専門職の労働者に対して「仕事で大きな満足を感じたのはいつか」「逆に、強い不満を抱いたのはどんな時か」という具体的なインタビュー調査を重ねました。この現場主義と実証的なアプローチから導き出されたのが、後に彼の名を不朽のものとする「動機付け・衛生理論」なのです。
この理論は、学術的な枠組みにとどまらず、現代に至るまで多くの組織やマネージャーが人材育成や組織開発を考える上での基礎的な指針として、計り知れない影響を与え続けています。
ハーズバーグの動機付け衛生理論について

ハーズバーグの動機付け・衛生理論が提示した最も革新的な点は、「仕事における満足」と「仕事に対する不満足」が、それぞれ全く異なる種類の要因によって引き起こされるという発見にあります。
これは、満足と不満足を一つの連続した物差しの上にある対極の感情として捉えていた、それまでの常識を覆すものでした。彼の調査によれば、給与や労働条件といった要素が改善されると、確かに従業員の不満は減少します。しかし、それは単に「不満がない」という状態になるだけであり、積極的に「仕事が楽しい」「もっと頑張ろう」という満足感や意欲の向上には直接結びつかないことが明らかになりました。
一方で、仕事の達成感や他者からの承認といった要素は、たとえ十分に満たされていなくても、必ずしも強い不満を生むわけではありません。ですが、ひとたびこれらが満たされると、従業員は内側から湧き上がるような高い満足感とモチベーションを感じるのです。
この構造から、ハーズバーグは人間の意欲に関わる要因を二つに分類しました。一つは、満たされることで満足感を生み出す「動機付け要因」、もう一つは、欠けていると不満を引き起こす「衛生要因」です。この理論は、単に不満を取り除くだけでは人の心は動かず、真の意欲向上には満足を生み出すための別のアプローチが不可欠であることを示しており、その構造から「二要因理論」とも呼ばれています。
動機付け要因の具体例

動機付け要因とは、満たされることで従業員に積極的な満足感と高い意欲をもたらす要素を指します。これらは主に仕事の内容そのものに内在しており、働く人の成長欲求や自己実現の欲求に直接働きかける性質を持っています。
その代表格として挙げられるのが「達成」です。困難な課題を自らの力で乗り越え、設定した目標をクリアした時に得られる個人的な充実感は、何物にも代えがたい満足をもたらします。そして、その達成が他者から「承認」されることで、モチベーションはさらに強固なものになります。上司からの具体的な賞賛や同僚からの感謝の言葉は、自分の仕事が組織にとって価値あるものだと実感させ、次なる挑戦への意欲を掻き立てるのです。
また、「仕事そのもの」が持つ面白さや探求心、創造性も極めて重要な動機付け要因です。裁量権を与えられ、より大きな「責任」を任されることは、会社から信頼されている証であり、従業員の当事者意識と仕事への没入感を深めます。自身の働きが正当に評価され、キャリアアップにつながる「昇進」や、新たなスキルを習得して自己の可能性を広げられる「成長」の機会も、将来への希望となり、日々の業務に取り組むための強い動機となります。
このように、動機付け要因は個人の内面から湧き出るエネルギーの源泉であり、持続的なエンゲージメントを築く上で欠かせない鍵となるのです。
衛生要因の具体例

衛生要因とは、それが満たされない場合に、従業員が強い不満を感じる原因となる要素のことです。動機付け要因とは対照的に、これらの要因はたとえ十分に満たされたとしても、満足感を積極的に高めるわけではなく、あくまで「不満がない」という当たり前の状態をもたらすに過ぎません。
衛生要因は主に、仕事そのものではなく、仕事を取り巻く環境や条件に関連しています。その筆頭に挙げられるのが「会社の政策と管理」です。非効率な社内ルールや、公平性を欠いた人事評価制度は、従業員の不満の温床となります。また、直属の上司による「監督」のあり方も重要です。マイクロマネジメントや高圧的な態度は部下のやる気を削ぎ、信頼関係を損なう大きな不満要因となり得ます。
そして、最も分かりやすい例が「給与」でしょう。給与が仕事内容や世間一般の水準に見合っていないと感じる時、人は強い不満を抱きますが、給与が満たされても、それは当然の対価と認識され、モチベーションの持続的な向上にはつながりにくいのです。
さらに、上司や同僚との「対人関係」の悪化は、日々の精神的なストレスを増大させ、職場の居心地を著しく損ないます。その他にも、劣悪な「労働条件」、不安定な「雇用の安定」なども、従業員の心身の健康を脅かし、深刻な不満を引き起こす要因です。
これらの衛生要因は、組織の健全性を保つための土台であり、この土台が崩れていては、いかなる動機付けの施策も効果を発揮することは難しいでしょう。
内発的動機付け

内発的動機付けとは、個人の内面から湧き起こる興味、関心、探求心、または何かを成し遂げたいという達成感そのものを原動力とする意欲の状態を指します。
これは、外部からの報酬や罰則がなくとも、その行動自体が目的となり、喜びや満足感をもたらすものです。ハーズバーグの理論における「動機付け要因」は、この内発的動機付けと深く関連しています。仕事の内容そのものに面白さを見出したり、新たなスキルを習得して成長を実感したり、与えられた責任を全うすることにやりがいを感じたりする状態は、まさに内発的に動機付けられている証拠です。
この動機付けは、誰かに強制されるものではなく、自らの意志によって行動を選択するため、非常に持続性が高く、質の高いパフォーマンスにつながる傾向があります。従業員が内発的に動機付けられている組織では、自律的に課題を発見し、創造的な解決策を見出そうとする文化が育まれます。
マネジメントの観点からは、いかにして従業員一人ひとりの内なる好奇心や成長意欲に火をつけ、それを業務と結びつけられる環境を設計するかが、組織全体の生産性を高める上で極めて重要な課題となるのです。
外発的動機付け

外発的動機付けは、内発的動機付けとは対照的に、個人の外部にある要因によって行動が引き起こされる意欲の状態を意味します。
その行動の目的は、行為そのものから得られる満足感ではなく、昇給や昇進、他者からの賞賛といった報酬を得ることや、逆に罰や叱責を回避することにあります。ハーズバーグの理論における「衛生要因」は、この外発的動機付けと密接な関係にあります。従業員は生活のために「給与」を得るという目的で働き、上司からの否定的な評価を避けるために業務上のルールを遵守します。
これらの要因は、人々を一定の行動へと駆り立てる上で強力な効果を発揮しますが、その効果は報酬が与えられ続ける限り、あるいは罰の脅威が存在する限りにおいて持続するものです。そのため、外発的動機付けだけに依存したマネジメントは、従業員の自律性や創造性を育む上で限界があり、より高い成果を目指す意欲を内側から引き出すことは難しいとされています。
外発的動機付けは組織運営の基盤を支える必要不可欠な要素ですが、それだけでは人の心を真に満たし、情熱を燃やし続けさせる力にはなり得ないのです。
代表的なモチベーション理論

ハーズバーグの理論はモチベーション研究の分野に大きな影響を与えましたが、彼の理論をより深く理解するためには、他の代表的なモチベーション理論との比較が有効です。人間の意欲を解き明かそうとする試みは数多く存在し、それぞれが異なる角度から光を当てています。
ここでは、特に重要とされるいくつかの理論を紹介し、ハーズバーグの理論との関係性や違いを考察します。
マズロー|欲求5段階説
アブラハム・マズローが提唱した「欲求5段階説」は、モチベーション理論の草分け的存在として広く知られています。
この理論は、人間の欲求をピラミッド型の階層構造で捉え、低次の欲求が満たされることによって、より高次の欲求へと関心が移っていくと説明します。最も基本的なのが、生命維持に不可欠な「生理的欲求」、次いで安全な環境を求める「安全の欲求」です。これらが満たされると、集団への所属を望む「社会的欲求」、他者から認められたいと願う「承認の欲求」が現れます。そして、最上位に位置するのが、自らの能力を最大限に発揮し、理想の自分を追求する「自己実現の欲求」です。
ハーズバーグの理論と対比すると、マズローの言う生理的欲求や安全の欲求、社会的欲求の一部は、ハーズバーグの「衛生要因」に相当します。これらは人間として最低限満たされるべき基本的な欲求です。一方で、高次の承認欲求や自己実現欲求は、仕事の達成感や成長を求める「動機付け要因」と重なります。
マズローが欲求を一つの連続した階層として捉えたのに対し、ハーズバーグはこれらを「不満」と「満足」という二つの独立した軸に分けた点が、両理論の最も大きな違いと言えるでしょう。
マクレガー|XY理論
ダグラス・マクレガーが提唱した「XY理論」は、マネジメントにおける人間観が、管理手法や組織のあり方にいかに大きな影響を与えるかを示した理論です。
彼は、人間に対する二つの対照的な見方を提示しました。一つは「X理論」と呼ばれるもので、「人間は本来怠け者で、仕事が嫌いであり、強制されたり罰を与えられたりしなければ働かない」という性悪説的な人間観です。この見方に立つマネージャーは、従業員を厳しく管理し、命令やノルマで縛り付ける「アメとムチ」によるマネジメントスタイルを選択しがちです。
一方の「Y理論」は、「人間は生まれながらに働く意欲があり、自ら目標を設定し、その達成のために努力することを厭わない」という性善説的な人間観に基づきます。Y理論に立つマネージャーは、従業員の自主性を尊重し、裁量権を与え、彼らが持つ能力を最大限に引き出すような環境づくりを目指します。
ハーズバーグの理論との関連で言えば、X理論的なアプローチは、給与や罰則といった「衛生要因」を用いた外発的な動機付けに偏りがちです。これは不満を防ぐ効果はあるかもしれませんが、従業員の潜在能力を引き出すには至りません。対照的に、Y理論的なアプローチは、従業員に責任や成長の機会を与えることで、「動機付け要因」を満たし、内発的なモチベーションを高めることを目指します。
マクレガーはY理論の人間観に基づいたマネジメントが望ましいと結論付けており、この点はハーズバーグが動機付け要因の重要性を説いたことと深く共鳴しています。
マクレランド|欲求理論
デイビッド・マクレランドが展開した「欲求理論」は、人の行動を動機付ける主要な欲求として「達成欲求」「権力欲求」「親和欲求」の三つを挙げ、これらの欲求の強さには個人差があるとした点が特徴です。
この理論は、人の動機が先天的なものだけでなく、後天的な経験や社会的環境によって形成されるという視点を持っています。「達成欲求」が強い人は、困難な目標を自らの力で成し遂げることに喜びを感じ、結果に対する明確なフィードバックを求めます。これは、ハーズバーグの動機付け要因である「達成」や「承認」と直接的に関連しています。
次に「権力欲求」が強い人は、他者に対して影響力を持ち、コントロールしたいという思いが強い傾向にあります。この欲求は、リーダーシップを発揮する場面や、より大きな「責任」や「昇進」を求める動機となり、これもまた動機付け要因と深く関わります。
最後に「親和欲求」が強い人は、他者と良好な関係を築き、集団に受け入れられたいという気持ちが強く働きます。この欲求は、職場の「対人関係」と結びつき、ハーズバーグの理論では主に「衛生要因」として分類されます。
マクレランドの理論は、全ての従業員が一律の動機付け要因で動くわけではなく、個々人の持つ欲求の特性を見極め、それに合わせた役割や目標設定を行うことの重要性を示唆しています。この個別最適化の視点は、ハーズバーグの理論を実践する上で非常に有益な補完的知見を与えてくれます。
ブルーム|期待理論
ビクター・ブルームによって提唱された「期待理論」は、人が特定の行動を取る際のモチベーションの強さが、三つの要素の掛け算によって決定されるというプロセスに着目した理論です。
これまでの理論が「何を」求めるかという欲求の内容に焦点を当てていたのに対し、期待理論は「どのようにして」意欲が生まれるのかという心理的なメカニズムを解明しようとしました。その三つの要素とは、第一に「期待(Expectancy)」です。これは「努力すれば、高い成果を出すことができるだろう」という可能性の認知を指します。
第二に「誘意性(Valence)」で、これは「その成果や報酬が、自分にとってどれほど魅力的か」という価値の大きさを意味します。
そして第三が「道具性(Instrumentality)」であり、「高い成果を出せば、実際に報酬を得られるだろう」という成果と報酬の結びつきに対する信頼度です。ブルームによれば、モチベーションはこの三つの要素の積で決まるため、どれか一つでもゼロであれば、意欲は生まれません。
この理論をハーズバーグの理論に当てはめてみると、例えば「昇進」という動機付け要因も、本人が「努力しても昇進できる見込みがない(期待が低い)」と感じたり、「そもそも昇進したいと思っていない(誘意性が低い)」、あるいは「成果を上げても正当に評価されず昇進にはつながらない(道具性が低い)」と感じていれば、モチベーションの源泉とはなり得ないことがわかります。
期待理論は、動機付け要因や衛生要因といった要素をただ提供するだけでなく、それらが個人の努力や成果と明確に結びついていると認識させ、かつ本人にとって価値あるものとして提示することの重要性を教えてくれます。
まとめ
本記事では、フレデリック・ハーズバーグが提唱した「動機付け・衛生理論」を中心に、人の労働意欲がどのように形成されるのかを多角的に考察してきました。この理論の核心は、「不満を解消すること」と「満足を生み出すこと」は、全く別の次元にあるという画期的な視点にあります。
給与や労働条件、人間関係といった「衛生要因」は、組織の健全性を保つための不可欠な土台です。この土台がなければ、従業員は安心して働くことすらできず、不満が募る一方でしょう。しかし、ハーズバーグが明らかにしたのは、この土台をどれだけ強固にしても、それだけでは人が心から仕事に情熱を注ぎ、自律的に高いパフォーマンスを発揮するためのエネルギーは生まれないという事実です。
真のモチベーションの源泉は、仕事そのものから得られる達成感や承認、責任感、そして自己の成長といった「動機付け要因」にあります。これらはマズローの言う高次の欲求や、内発的動機付けと深く結びついています。
現代のマネジメントに求められるのは、衛生要因を整備して不満の芽を摘むと同時に、従業員一人ひとりが動機付け要因を実感できるような仕事環境を意図的に設計することです。本記事で紹介した他のモチベーション理論も参考にしながら、自社や自身のチームにおける意欲向上のための次の一手を考えてみてはいかがでしょうか。ハーズバーグの理論は、小手先の施策ではなく、働くことの本質的な価値を問い直すきっかけを私たちに与えてくれます。






