
「なぜ国によって、福祉のあり方はこれほど違うのだろうか」と考えたことはありませんか?
私たちの問いに対して、明確な座標軸を与えてくれるのが、社会学者イエスタ・エスピン=アンデルセンが提唱した「福祉レジーム論」です。この理論は、社会保障の支出額という単純な「量」ではなく、国家・市場・家族が人々の生活を支える上でどのような役割を担っているか、その「仕組み(レジーム)」という「質」に着目しました。
この構造的な視点を持つことで、「なぜ日本の支援は届きにくいのか」「なぜ北欧は手厚いのか」といった疑問の根本原因が見えてきます。福祉レジーム論は、現代社会が抱える格差や貧困といった課題を、より深いレベルで読み解くため不可欠な理論ともいえるでしょう。
本記事では、福祉レジームの概要と3つの類型、そして日本の福祉がどのように位置づけられるのかまでを、一つひとつ丁寧に解説していきます。
エスピン・アンデルセンとは?

イエスタ・エスピン=アンデルセン(以下アンデルセン)は、現代の福祉国家研究に大きな功績をもたらしたデンマークの社会学者です。
それまでの研究が主に社会保障の支出規模の大小に注目していたのに対し、アンデルセンはそのアプローチに疑問を呈し、福祉国家を比較分析するための新しい理論を提唱しました。
アンデルセンが焦点を当てたのは、福祉が供給される「質的な仕組み」そのものです。1990年に発表された主著『福祉資本主義の三つの世界(The Three Worlds of Welfare Capitalism)』において、国家がどの程度市場経済から個人を保護しているのか、また福祉制度が社会の階層構造にどのような影響を与えているのか、という独自の分析軸を打ち立てました。この理論的枠組みは、単に国ごとの政策の違いを並べるのではなく、その背後にある思想や歴史的背景までをも浮き彫りにします。
アンデルセンの分析は、各国の福祉制度がどのような理念に基づいて構築され、結果としてどのような社会を生み出しているのかを鮮やかに描き出しました。このアプローチによって、福祉国家は単一のモデルではなく、それぞれ異なる論理で動く複数の「世界」として存在することが明らかにされたのです。
脱商品化
アンデルセンの理論の根幹をなすのが、「脱商品化(De-commodification)」という概念です。
これは、個人が自らの労働力を市場で「商品」として売らずとも、社会的に受容可能な水準の生活を維持できる度合いを測る指標を指します。つまり、病気や失業、あるいは高齢といった理由で働けなくなった際に、市場への依存からどれだけ自由になれるか、その度合いこそが福祉国家の性質を決定づけるという考え方です。
この「脱商品化」という視点が画期的だったのは、福祉の役割を単なる貧困救済としてではなく、市民の生き方の選択肢を保障する積極的な権利として捉え直した点にあります。「脱商品化」の度合いが高い社会では、人々は生活の糧を得るために、不利な条件の労働を無理に受け入れる必要性が低減されます。公的な年金や失業手当、疾病手当などが充実していることで、一時的に労働市場を離れても、生活の尊厳が守られるという安心感が社会全体に行き渡るのです。
逆に、「脱商品化」の度合いが低い社会では、公的な保障が限定的であるため、個人は絶えず労働市場で競争し、自らの労働力を売り続けなければ生活が立ち行かなくなります。このような社会では、福祉はあくまで市場で生き残れなかった一部の人々を対象とする、例外的な措置と見なされがちです。
このように「脱商品化」のレベルを分析することによって、その国の福祉制度が市民にどれだけの生活保障と自由を与えているのかを評価できると考えました。この指標は、後に紹介する3つの福祉レジームを分類するための重要な分析軸となるのです。
| 脱商品化 | 個人が自らの労働力を市場で「商品」として売らずとも、社会的に受容可能な水準の生活を維持できる度合いを測る指標 |
| 脱商品化の度合いが高い社会 | 公的な年金や失業手当、疾病手当などが充実していることで、一時的に労働市場を離れても、生活の尊厳が守られるという安心感がある社会 |
| 脱商品化の度合いが低い社会 | 公的な保障が限定的であるため、個人は絶えず労働市場で競争し、自らの労働力を売り続けなければ生活が立ち行かなくなる社会 |
福祉レジーム
アンデルセンが用いる「福祉レジーム」という言葉は、単に個別の福祉制度の寄せ集めを指すのではありません。
福祉レジームは、国家、市場、そして家族という3つの主体が、人々の生活保障においてどのように相互に関係し、役割を分担しているかを示す体制や秩序を意味します。このレジームを分析することで、各国の社会構造の根幹をなす福祉のあり方を捉える上で役立ちます。
このレジームを分類するために、アンデルセンは「脱商品化」に加えて、「階層化(Stratification)」にも着目しました。これは、福祉制度が社会の階層構造をどのように形成し、あるいは再編するのかという問いに関連します。
ある国の制度が、職業や地位による格差をむしろ維持・強化するように機能しているのか、それとも逆に、国民間の平等を促進し、階層を解体する方向に作用しているのかを分析します。
このように、福祉制度が「誰を、どのようにして市場から解放し(脱商品化)」、その結果として「どのような社会階層の秩序を生み出しているのか(階層化)」という2つの問いを立てることによって、初めて福祉国家の質的な違いを立体的に捉えることができる考え方が、福祉レジーム論の基盤となります。そして、アンデルセンは福祉レジームを3つの類型として提唱しました。
| 脱商品化 | 個人が自らの労働力を市場で「商品」として売らずとも、社会的に受容可能な水準の生活を維持できる度合いを測る指標 |
| 階層化 | 職業や地位による格差をむしろ維持・強化するように機能しているのか、それとも逆に、国民間の平等を促進し、階層を解体する方向に作用しているのかを分析する指標 |
| 福祉レジーム | 国家、市場、そして家族という3つの主体が、人々の生活保障においてどのように相互に関係し、役割を分担しているかを示す体制や秩序 |
自由主義レジーム

福祉レジームの第一の類型は、「自由主義レジーム」です。
このレジームの根底にあるのは、個人の自由と自己責任を最大限に尊重し、福祉における国家の役割を必要最小限に留めるべきだという思想です。ここでは、人々の生活は基本的に市場経済における個人の努力によって賄われるべきだと考えられており、公的な福祉はあくまで市場で成功できなかった人々に対する最後の安全網(セーフティネット)として位置づけられます。
そのため福祉給付の大きな特徴は、その対象が厳格に選別される点にあります。公的扶助を受けるためには、資力調査(ミーンズテスト)をパスしなければならず、本当に困窮していることが証明された「貧困層」にのみ支援が限定される傾向があります。
その結果、「脱商品化」の効果は極めて低く、人々は常に労働市場で自身の労働力を商品として売り続けることを強く動機づけられます。公的福祉は最低限の水準に抑えられ、多くの国民は民間の保険商品や企業が提供する福利厚生に頼ることになります。
このような制度は、社会の「階層化」に対して特有の影響を及ぼします。公的福祉の受給者と、市場や民間保険で生活を成り立たせている大多数の国民との間に明確な分断線が引かれ、福祉を受けることが一種のスティグマ(負の烙印)となりがちになります。これにより、社会は福祉に頼る層と頼らない層という二元的な構造を生み出し、階層間の隔たりをむしろ拡大させる方向に作用します。
この自由主義レジームの典型的な例として挙げられるのは、アメリカ、カナダ、オーストラリア、そしてサッチャー改革以降のイギリスなどです。これらの国々では、市場メカニズムが福祉供給の中心的役割を担い、国家の介入は補完的なものに留まっているという共通点が見られます。
| 自由主義レジーム | 個人の自由と自己責任を最大限に尊重し、福祉における国家の役割を必要最小限に留めるべきだという思想 |
| 脱商品化の度合いが低い社会 | 公的な保障が限定的であるため、個人は絶えず労働市場で競争し、自らの労働力を売り続けなければ生活が立ち行かなくなる社会 |
| 福祉給付 | 公的な福祉はあくまで市場で成功できなかった人々に対する最後の安全網(セーフティネット)として位置づけ(資力調査やスティグマが生まれやすい) |
| 主な代表例 | アメリカ、カナダ、オーストラリア、イギリスなど |
保守主義レジーム

福祉レジームの第二の類型は、「保守主義レジーム」と呼ばれます。
このレジームは、自由主義のように市場原理を絶対視するのではなく、伝統的な社会秩序や家族の役割を維持することを重視する点に大きな特徴があります。国家の役割は、市場の失敗を補うこと以上に、既存の階層構造や職業的地位を安定させることに向けられます。
このレジームにおける社会保障制度は、主に職業ごとの社会保険制度を通じて構築されています。給付の水準は、個人が過去に納めた保険料や所属していた職域、地位に強く結びついており、国民全員に一律の給付を行うという発想は希薄です。そのため、安定した職業に就き、長期間保険料を納めてきた労働者、特に伝統的な男性稼ぎ主は比較的手厚い保障を受けられますが、そうでない人々や労働市場への参加が不安定な層は、保障が手薄になる傾向があります。このため、「脱商品化」の度合いは中程度と言えます。市場から完全に自由になるわけではないものの、特定の条件下では安定した生活が保障されるのです。
社会の「階層化」という点では、このレジームは既存の階層を維持し、再生産する効果を持ちます。公務員は公務員の、大企業の従業員は大企業の、というように、それぞれの身分に応じた給付体系が組まれているため、社会保障制度そのものが階層間の格差を温存する役割を果たします。また、このレジームは伝統的な家族観を前提としており、介護や育児といったケアの役割を主に家族、とりわけ女性が担うことを暗黙の前提とする「家族主義」の傾向が強いことも指摘されています。
この保守主義レジームの代表的な国としては、世界で最初に社会保険制度を導入したドイツをはじめ、フランス、オーストリア、イタリアなどが挙げられます。これらの国々では、国家が職域組合と連携しながら、階層秩序を前提とした社会保障を運営しているのです。
| 保守主義レジーム | 自由主義のように市場原理を絶対視するのではなく、伝統的な社会秩序や家族の役割を維持することを重視 |
| 脱商品化の度合いは中程度 | 市場から完全に自由になるわけではないものの、特定の条件下では安定した生活が保障 |
| 階層化と給付 | 社会保障制度そのものが階層間の格差を温存する役割 安定した職業に就き、長期間保険料を納めてきた労働者は比較的手厚い保障を受けられますが、そうでない人々や労働市場への参加が不安定な層は、保障が手薄になる傾向 |
| 主な代表例 | ドイツ、フランス、オーストリア、イタリアなど |
社会民主主義レジーム

福祉レジームの第三の類型は、「社会民主主義レジーム」です。
このレジームが目指すのは、自由主義的な市場原理からも、保守主義的な階層秩序からも個人を解放し、普遍主義の理念に基づいて社会的な平等を最大限に追求することです。ここでは、福祉は貧困層や特定の職域層のためだけのものではなく、市民としての権利として全国民に提供されるべきであると考えられています。
このレジームの最大の特徴は、極めて高い「脱商品化」水準にあります。資力調査や過去の拠出記録に大きく左右されることなく、市民権そのものを根拠として、全ての国民が高水準で均一な給付やサービスを受ける権利を持ちます。失業、疾病、老齢といったリスクに直面しても、生活の質が大きく損なわれることのないよう、国家が責任を持って包括的な保障を提供します。これにより、人々は市場の動向に過度に依存することなく、安定した生活を営むことが可能になります。
社会の「階層化」に対しては、このレジームは階層を解体し、社会的な平等を促進する効果を持ちます。富裕層から労働者層まで、すべての階層が同じ制度を利用し、税を負担することで、社会的な連帯感が醸成されます。公的な保育や介護、教育といった社会サービスを国家が積極的に供給することで、所得格差だけでなく、男女間の役割分業の格差是正にも貢献します。これにより、中間層を厚くし、社会全体の格差を縮小させることを目指しているのです。
この社会民主主義レジームは、しばしば「北欧モデル」とも呼ばれ、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーといった国々がその典型とされています。これらの国々では、国家が福祉の主要な供給主体として中心的な役割を担い、市場や家族の役割を補完するのではなく、むしろ積極的に代替していくことで、普遍的な市民の権利を保障する社会を構築しています。
| 社会民主主義レジーム | 自由主義的な市場原理からも、保守主義的な階層秩序からも個人を解放し、普遍主義の理念に基づいて社会的な平等を最大限に追求 |
| 脱商品化の度合いは高い | 失業、疾病、老齢といったリスクに直面しても、生活の質が大きく損なわれることのないよう、国家が責任を持って包括的な保障を提供 |
| 福祉給付 | 人々は市場の動向に過度に依存することなく、安定した生活を営むことが可能 公的な保育や介護、教育といった社会サービスを国家が積極的に供給 |
| 主な代表例 | スウェーデン、デンマーク、ノルウェーなど |
福祉レジームと日本

日本の福祉はアンデルセンの3つのレジームの中で、どこに位置づけられるのでしょうか。
この問いに対する答えは単純ではなく、日本の福祉制度が複数のレジームの特性を併せ持つ「ハイブリッド型」であると理解することが一般的です。日本の制度は、明確に一つの類型に収まらない複雑な構造を持っているのです。
日本の福祉制度の根幹をなしているのは、ドイツなどをモデルとした職域ごとの社会保険制度です。年金や医療保険は、企業規模や職業によって分かれており、正規雇用の労働者、特に大企業の従業員は比較的手厚い保障を受けられる構造になっています。この点は、既存の階層秩序を維持・再生産する「保守主義レジーム」の色彩を色濃く反映しています。企業が福利厚生を通じて従業員の生活を支えるという企業主義的な側面も、この特徴を補強してきました。
一方で、公的な社会サービスの提供は限定的で、保育や介護といったケアの役割は、長らく家族、特に女性の無償の労働に大きく依存してきました。これは保守主義レジームに見られる「家族主義」の傾向と一致します。しかし、日本の公的扶助、生活保護制度は、厳格な資力調査を伴う選別主義的な性格が強く、これは「自由主義レジーム」の要素と言えます。福祉が「最後のセーフティネット」と見なされ、利用に際してスティグマが伴いがちな点も、自由主義的な特徴です。
このように、日本の福祉レジームは、保守主義的な職域保険を土台としながらも、公的サービスの弱さや選別主義的な公的扶助といった自由主義的な要素が混在する、独特の形をとっています。このハイブリッドな性質こそが、正規雇用と非正規雇用の格差や、制度の谷間に落ちてしまう人々の問題など、現代日本が抱える福祉課題の根源的な要因となっていると分析できるのです。
まとめ
本記事では、アンデルセンが提唱した福祉レジーム論を概観してきました。
自由主義、保守主義、社会民主主義という3つの類型は、福祉国家を「国家・市場・家族」の役割分担という、単なる支出額ではない質的な視点で捉える画期的な枠組みです。
もちろん、この分類が全ての国を完璧に説明できるわけではなく、日本のようなハイブリッド型やジェンダーの視点といった、理論の限界も指摘されています。しかし重要なのは、各国のレジームがその国の歴史的な歩みと政治的な選択の結果として形成されたという視点を持つことです。過去から学ぶことで、なぜ今の制度がこの形なのかを深く理解できます。
福祉レジーム論は、単なる分類学に留まりません。それは私たちが自国の福祉の現在地を客観的に知り、その成り立ちを学び、そして未来の社会をどう構想していくかを考えるための、大切な知的羅針盤となるのです。





