はじめに
本記事では「生活保護制度についての沿革や歴史まとめ」というタイトルのもと、社会福祉や生活保護制度について学ぶ方を対象に、要点やキーワードについてわかりやすくまとめております。
これまで当HPでは、イギリス社会福祉の歴史を中心に、産業や技術の発展に伴う貧困や労働問題、社会福祉政策、慈善事業について触れてきました。まだ読まれていない方は先にご覧になられると、本記事の理解がより一層深まります。
☆イギリス社会福祉の発展過程を辿る
日本における生活保護制度は第二次世界大戦後にGHQによって発展していきましたが、それ以前にも困窮者支援や政策は存在しておりました。
古くを遡れば、学校の教科書でも出てくる「貧窮問答歌(万葉集)」という山上憶良(ヤマノウエオクラ)の歌があります。
これは大宝律令によって農民に租税が課せられ、さらには自然災害や疫病もあり、農民の生活が苦しかった様子が歌で表現されております。
当時この困窮に対する施策として、「戸令」というものを制定しました。
これは「親族相救」と呼ばれる、困窮した場合まず最初に頼りにするのは「親族や近親者」であり、それらがいない場合には国家による救済が動くという考え方のもと展開されました。
この考え方は、後に明治時代に制定された「恤救規則」(ジュッキュウキソク)においても、同様に続いていることが見受けられます。
6世紀には「仏教」が日本に導入されたこともあり、慈悲の思想によって多くの救済が行われました。
中でも、大阪にある四天王寺に設立された「四箇院」(シカイン)は、日本で最初の社会福祉施設とも言われております。
その後も、僧侶の行基による布施屋や、将軍による救済施策、キリスト教伝来に伴う事業展開、江戸の相互扶助体制や小石川養成所など、歴史を辿ると様々な出来事があります。
このように学びにおいては「近い時代をなぞる」もしくは「現行制度が出発点」となりがちではありますが、これからの不確実性の時代を歩んでいく上で「歴史から学ぶことで価値観や発想の広がりが生まれること」は援助や実践においても大切になります。
Point
生活保護制度以前にも、困窮者支援や施策は数多く行われてきた。
恤救規則
1874年(明治7年)に明治政府によって、「恤救規則」が公布されました。(読み方:ジュッキュウキソク)
恤救規則は、日本で初めて全国統一的な規定のもと展開された救貧法であり、【人民相互の情誼】(読み方:ジンミンソウゴノジョウギ)と【無告の窮民】(読み方:ムコクノキュウミン)がキーワードとして展開されました。
恤救規則
・基本原則:済貧恤救は「人民相互の情誼」によってなされるべきもの
→ 血縁や地縁関係にあるものによる相互扶助による救済
・相互扶助が期待できない【無告の窮民】のみを国家が公費で救済する
<無告の窮民状態にある以下の者>
①廃疾者 ②70歳以上の老衰者 ③疾病者(病人) ④13歳以下の孤児
・救済内容
→ 米代の【現金】支給(時代は明治なので現物ではない)
※①と②は年間1石7斗、③は1日男3合、女2合、④は年間7斗
1年間に必要な米の量が「1石=1000合」と言われている。また「1斗=100合」なので「7斗は700合」になる。
このように恤救規則は近代的というよりもむしろ、先の「親族相救」の精神があったように、前近代的な考え方のもとに展開された政策とも捉えられます。
その後日本は戦争の時代に突入し、国家予算の半分以上が軍事費に充てられます。
そこで発展したのは、民間の篤徳家らが中心となって展開された慈善事業になります。
当時の代表的な慈善事業
・石井十次 = 岡山孤児院(対象:児童とりわけ孤児)
・留岡幸助 = 家庭学校(対象:児童とりわけ不良少年)
・石井亮一 = 滝乃川学園(対象:知的障害)
・野口幽香 = 双葉幼稚園(対象:保育)
この他にもA・アダムスや片山潜、長谷川良信や賀川豊彦による「セツルメント運動」、山室軍平による「救世軍」、出版では横山源之助の「日本の下層社会」や、岡山と大阪で行われた「方面委員制度」の展開、富山からはじまった「米騒動」という大衆運動などが当時の代表的なものとして数多く展開されておりました。
また現在の全国社会福祉業議会の起源である「中央慈善協会」もこの頃に設立され、初代会長に民間人であった「渋沢栄一」を置くなど、財団法人として展開されました。
このように、この時代は近代化に伴う様々な背景に連動し、日本においても、世界においても、社会福祉に関わる動きが櫛来も多く発展していくことになります。
救護法
1874年から続く恤救規則はその後長らく続き、やがて1929年に「救護法」が制定されます。
恤救規則では「人民相互の情誼のもと、無告の窮民を救済する」という精神と合わせて、救済は「天皇による慈悲」として行われておりました。
これが救護法に移り変わる中で「公的扶助を義務」とする姿勢へと移り変わっていきます。
※ただ当然ながら、まだ選別的や差別的な色合いは残っておりました。(労働能力のある者を除外、選挙権はく奪など)
救護法
・全部で33条から成り、項目は「被救護者」「救護機関」「救護施設」「救護の種類と方法」「救護費」「雑則」に分けられる
・救護の対象(被救護者)
①65歳以上の老衰者 (恤救規則では70歳以上だった)
②13歳以下の幼者
③妊産婦
④不具廃疾、疾病、傷痍、その他精神または身体の障碍により労務を行うに故障のある者であって、貧困のため生活できない者
・救済機関 = 居住地の市町村 (市町村は救護事務のための委員を置くことが可能)
・救護施設 = 養老院、孤児院、病院、その他救護を目的とする施設
ア)養老院(救護法) → 養老施設(新生活保護法) → 老人ホーム(老人福祉法)
イ)孤児院 → 児童養護施設
・救護の種類と方法
①生活扶助
②医療
③助産
④生業扶助
その他埋葬の費用
このように救護法では、基本は「居宅救護」のもと、「扶助」や「救護施設」を公的に設けることを行いました。
法の制定は1929年でありましたが、世界恐慌を背景とする財政不足からすぐに施行することができず、大衆運動やメディアの力もあり、競馬法を改正することで財源を確保し、1932年に施行されました。
その後、今まで篤徳家らが行ってきた慈善・社会事業についても、不況による寄付金や補助金の減による打撃を受けており、この状況を打開するためにも、「全日本施設社会事業連盟」が設立されます。
その働きかけもあり、1938年には「社会事業法」が成立され、政府の補助が法律化されますが、一方で初代理事長の丸山鶴吉が「取締法である」と非難されたように、戦時体制が背景にもあることからも、国による監督指導をより強めるものとなりました。
また合わせてこの頃は、戦時体制における「建民健兵策」として、「母子保護法」「国民健康保険法」「医療保護法」などが相次いで制定されていきます。
SCAPIN775
1945年に第二次世界大戦が終戦を迎え、日本はGHQによる占領下へと入ります。
焼け野原となった日本各地では、浮浪者や失業者の極端な増加、物資や食料の極端な不足がありました。
GHQは、日本へ生活困窮者への緊急措置として、「生活困窮者緊急生活援護要綱」と作成することを命じ、1946年に「社会救済に関する覚書(SCAPPIN775)」を日本へ提出します。この覚書には3つの原則が掲げられておりました。
SCAPPIN775原則
①無差別平等の原則 = 生活困窮者を差別しないこと
②公私分離の原則 = 困窮者保護の国家責任を民間にゆだねないこと
③必要充足の原則 = 救済支給額はできる限り制限しないこと
このSCAPPIN775の原則に基づき、旧生活保護法が制定されていきます。
旧生活保護法
1946年9月に「生活保護法(旧生活保護法)」が制定されます。終戦してわずか1年後になります。
旧生活保護法
・生活保護の対象:生活保護を要する状態にあるもの(無差別平等)
・生活保護の責任:国家にあり(国家責任を明確化)
・方面委員を民生委員に改め、補助機関として置く
※SCAPPIN775の公私分離に反するとして、新生活保護法では改善されることになる
・保護基準:マーケットバスケット方式を採用
※マーケットバスケット方式は、スーパーマーケットでカゴに商品を入れるように、最低限度の生活に必要な費用(飲食、物品、被服、水道光熱、家具など)を積み上げて算出し、科学的に最低生活費を捻出する算定方式のこと
・扶助の種類5つ
①生活扶助
②医療扶助
③出産扶助
④生業扶助
⑤葬祭扶助 ☆
※①から④は救護法でも、①生活扶助、②医療、③助産、④生業扶助と同様の項目が挙げられており、救護法であった「埋葬費の支給」が葬祭扶助として加わる
・生活保護費用の負担割合 = 10分の8を国が負担
・欠格条項の存在
ア)国民の税金を惰民養成に使ってはいけないという厚生省の考えのもと、労働能力のあるにも関わらず勤労をしない者や素行不良者は保護の対象から外す
イ)「保護請求権」や「不服申し立て」については積極的に認めなかった
※これらはGHQによる指摘により、新生活保護法では改善される
ただし一方で、旧生活保護法は欠格条項があることでマイナスに捉えられがちであるが、救護法と比較しても200万人を超えるはるかに多くの国民を救済したことは事実である
こうして、GHQの指導により日本における生活保護体制の土台が築き上げられます。
新生活保護法
旧生活保護法はやがて廃止され、新生活保護法として1950年に新しく制定されます。
旧生活保護法の改善として、「欠格条項の廃止」や、民生委員を「協力機関」とし、代わりに社会福祉主事を補助機関に置いたことが挙げられます。
新生活保護法では現代にも続く「原理や原則」、「権利や義務」が以下のように掲げられております。
基本原理
<☆国家責任の原理>
(第1条:目的)
・日本国憲法第25条を理念(生存権)
・国が行う(国家責任)
・最低限度の生活保障と自立を助長することを目的
<☆無差別平等の原理>
(第2条:無差別平等)
・対象:すべての国民(法律に定める要件を満たす限り)
・保護:この法律における保護を無差別平等で受けることができる
<☆最低生活の原理>
(第3条:最低生活)
・この法律で保障される最低限度の生活
→「健康で文化的な生活を維持することができるもの」
<☆保護の補足性の原理>
(第4条:保護の補足性)
・保護は生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件
このように生活保護法の基本原理として「国家責任の原理」「無差別平等の原理」「最低生活の原理」「保護の補足性の原理」の4つが掲げられております。
保護の原則
<★申請保護の原則>
(第7条:申請保護の原則)
・保護の開始:扶養義務者やその他同居の親族の申請に基づいて開始
▼例外:要保護者が急迫した状況は、保護の申請がなくても必要な保護を受けることができる。
<★基準及び程度の原則>
(第8条:基準及び保護の原則)
・保護の基準
ア)厚生労働大臣の定める基準により測定した要保護者の需要を基とする
イ)要保護者の金銭や物品で満たすことのできない不足分を補う程度
ウ)最低限度の生活の需要を満たす上での不足分を補う程度なので、この基準を超えてはならない
※年齢別、性別、世帯構成別、所在地地域別など事情を考慮
<★必要即応の原則>
(第9条:必要即応の原則)
・必要な事項を考慮して、有効かつ適切に行う
※必要な事項:年齢別、性別、健康状態、個人または世帯の実際の必要の相違などを考慮
<★世帯単位の原則>
(第10条:世帯単位の原則)
・保護は世帯を単位として賛否や程度を定める
▼例外:但し、これによりがたいときは個人を単位として定めることができる
このように保護の原則として「申請保護の原則」「基準及び程度の原則」「必要即応の原則」「世帯単位の原則」の4つが掲げられております。原則は原理と異なり、状況に応じて例外事項があることが特徴となります。
被保護者の権利
<不利益変更の禁止>
(第56条:不利益変更の禁止)
・既に決定された保護を不利益に変更されることがない
(正当な理由がない限り)
<公課の禁止>
(第57条:公課禁止)
・保護金品を標準として、租税その他公課(税金)を課せられることはない
<差押の禁止>
(第58条:差押禁止)
・既に給付を受けた保護金品や、これらを受ける権利を差し押さえられることはない
被保護者の義務
<譲渡禁止>
(第59条:譲渡禁止)
・保護を受ける権利は、譲り渡すことができない
<生活上の義務>
(第60条:生活上の義務)
・能力に応じて勤労に励む
・健康の保持及び増進に努める
・収入、支出その他生計の状況を適切に把握し、支出の節約を図る
・生活の維持及び向上に努める
<届出の義務>
(第61条:届出の義務)
・保護の実施機関又は福祉事務所長に届け出をする
ア)収入や支出その他生計の状況について変動があったとき
イ)居住地もしくは世帯の構成に異動があったとき
<指示等に従う義務>
(第62条:指示等に従う義務)
・保護の実施機関からの必要な指示指導に従わなければならない
ア)施設入所(救護施設や更生施設など)
イ)私人の家庭に養護を委託して保護
<費用返還義務>
(第63条:費用返還義務)
・急迫した場合等で資力があるにもかかわらず保護を受けた時は、保護に対する費用を支弁した都道府県や市町村へ、すみやかに実施機関の定める額を返還しなければならない
このように被保護者への権利や保護を受ける上での義務についても明記されております。
生活保護の種類については、救護法では4つ、旧生活保護法では5つありましたが、新生活保護法では新たに「教育扶助」と「住宅扶助」が加わります。※このように覚える際は追加されたものを覚えると効率的です。
またその後、介護保険の施行により「介護扶助」も加わり、扶助は合計で8つの種類になります。
扶助の種類:推移
(救護法) → (旧生活保護法) → (新生活保護法)の順
①生活扶助 → 生活扶助 → 生活扶助
②助産 → 出産扶助 → 出産扶助
③医療 → 医療扶助 → 医療扶助(現物給付)
④生業扶助 → 生業扶助 → 生業扶助
⑤埋葬費 → 葬祭扶助 → 葬祭扶助
⑥なし → なし → 教育扶助
⑦なし → なし → 住宅扶助
⑧なし → なし → 当初なし、介護保険施行により介護扶助(現物給付)
扶助の種類:内容
①生活扶助(金銭給付)
・衣食その他日常生活を営む上で必要なもの
・扶助の中では一番割合が多い
・生活扶助は第1類と第2類に分類
ア)第1類=食費や被服費など「個人単位」
イ)第2類=光熱水費や家具什器など「世帯単位」
②住宅扶助(金銭給付)
・家賃や住居の補修などの住宅維持に必要なもの
③教育扶助(金銭給付)
・義務教育に伴い必要な教科書、通学費用、給食費、学習支度費など
※高等学校は生業扶助に含まれる
④生業扶助(金銭給付)
・生業費(資金や器具、資料代)、技能習得費(生業に就くために必要な経費)、高等学校等就学費用、就職支度費など
⑤出産扶助(金銭給付)
・出産に伴い必要となる費用(分娩の介助や前後の処置、ガーゼなどの衛生用品)
⑥葬祭扶助(金銭給付)
・火葬や埋葬、納骨や死体運搬など葬祭に伴う費用
⑦医療扶助(★現物給付)
・診察や検査、薬剤や手術、入院など
⑧介護扶助(★現物給付)
・居宅や施設介護、福祉用具や住宅補修など
このように「生活保護は一律にこうである」というものではなく、その人の状況に応じて様々になります。
以上が生活保護の種類について基本的な内容となります。
朝日訴訟
朝日訴訟
”朝日訴訟とは、重度の結核で国立岡山療養所に長期入院中であった朝日茂さんが、当時の生活保護法による保護基準はあまりにも低劣であって、健康で文化的な生活を営む権利=生存権を侵害する、として訴えた裁判です。「人間にとって生きる権利とは何か」を真正面から問いかける意味で「人間裁判」と呼ばれ、国民的な訴訟支援運動が巻き起こり、また東京地裁も当時の生活保護基準を違憲とする、裁判史上画期的な判決を下しました。”
NPO朝日訴訟の会ホームページより引用
1957年の提訴から1962年の最高裁判決までの10年に渡る運動は、当時の日本社会において「人間らしく生きること」や「社会保障や貧困問題について」「尊厳について」といったテーマへの国民の関心が高まったと言われております。
長期結核患者である朝日茂さんは、月々600円の生活費では生活することは到底無理であり保護費の増額を求めたところ、行政は兄に月3000円の仕送りを命じました。兄は行政と相談を重ねた結果、弟への温かい手紙と共に1500円支給することを決意します。
しかしその後、仕送りを収入とみなし保護費600円を撤廃にし、月1500円のうち600円は本人へ、900円は医療費の一部を負担させるよう保護変更決定を行いました。
これに対して、月600円では健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を蹂躙するといって、処分の取り消しを求め裁判を起こしました。
東京地裁では原告が勝訴しましたが、東京高裁では原告が敗訴し、最高裁では上告の最中に原告が亡くなり、生活保護を受ける権利は譲渡することができないということで本人の死亡により終了する形となりました。
なお、憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(生存権)」は、国の責務としての宣言であり、直接国民に対して具体的に法的権利を付与するものではないとする「プログラム規定説」であると最高裁は判断を下しました。
以下、NPO朝日訴訟の会のホームページリンクを掲載いたします。
紹介動画も掲載しますので、良かったらご覧になってみてください。
NPO 朝日訴訟の会 ホームページ (asahisosho.or.jp)
まとめ
以上が生活保護法の沿革について基本的な内容をまとめたものになります。
世界の貧困観はやがて「絶対的貧困」から「相対的貧困(周囲と比較して劣っている)」と移り変わり、日本でも最低生活費の算出方法が「マーケットバスケット方式」や「エンゲル方式」といった「絶対的基準」から、「格差縮小方式」や「水準均衡方式」といった「相対的基準」へと移り変わっていきます。
1960年代頃には福祉国家にも関わらず貧困状態が発見されたことから、「貧困の再発見」と呼ばれ、福祉国家の見直しが図られます。
※このあたりの歴史についてはまた今後記事にしていきます。
このように社会福祉の根源的なテーマの一つは「貧困」であることからも、社会福祉に関わる者として学びを深めていきたいテーマでもあります。
引き続きどうぞよろしくお願いします。
★参考文献・URL
Microsoft PowerPoint - 07【資料3-3】これまでの議論を踏まえた検討課題と論点の整理 (mhlw.go.jp)
社会福祉発達史キーワード 古川孝順・金子光一著 有斐閣
社会福祉のあゆみ 金子光一著 有斐閣アルマ
はじめての社会保障 椋野美智子・田中耕太郎著 有斐閣アルマ